日本経済は今後も一定の物価上昇局面にあります。仮に年率3%
の実質物価上昇が10年間続いたとすると、物価水準は約1.34倍
すなわち34%上昇する計算になります。このような環境下で、
自社の販売価格を一切引き上げずに据え置いた場合、企業経営
はどのような姿になるのでしょうか。以下、そのメカニズムと
帰結を整理します。

■1. 利益率の持続的低下

最も直撃するのは利益率の低下です。原材料費、仕入価格、光
熱費、物流費、人件費など、ほぼすべてのコスト要素が毎年3%
ずつ上がっていきます。10年後にはトータルで約34%のコスト
増。仮に粗利率30%でスタートしても、販売価格を据え置けば
粗利率は20%前後まで落ち込みます。営業利益率はさらに圧縮
され、経常的に赤字スレスレの水準に陥る可能性が高いのです。

■2. 人件費負担の深刻化

最低賃金の上昇率も物価上昇に連動して加速します。実際、直
近数年の日本でも最低賃金は毎年3%超のペースで上がっており、
この傾向は今後も続くと考えられます。従業員の確保には昇給
が不可欠ですが、売上価格を据え置いたままでは給与の原資を
確保できません。結果として人件費比率が高騰し、「給料を払
えない会社」と見なされ、優秀な人材は他社へと流出していき
ます。労働力不足が慢性化し、残った社員に過重な負担がのし
かかる悪循環が起こります。

■3. 資金繰りリスクと投資停滞

売上高が横ばいでも、仕入や人件費は年々増加します。そのた
め運転資金需要は増し、借入金に頼らざるを得ません。しかし
利益が薄いため返済能力(EBITDA)は低下し、銀行評価は厳
しくなります。結果として借入条件は悪化し、資金繰りリスク
が慢性化します。さらに、キャッシュフローに余力がないため、
設備投資や新規事業投資、人材育成への投資を後回しにせざる
を得ず、企業の成長余力が削がれていきます。

■4. ブランド力・競争力の低下

競合他社が適正な値上げを実施して利益を確保する一方で、自
社だけが価格を据え置いていると、「価格が安い」ことは一見
魅力のように見えます。しかしそれは短期的な顧客獲得にはつ
ながっても、中長期的には「品質やサービスを維持できない安
売り企業」というイメージにつながります。結果として商品力
が劣化し、設備は老朽化、人材は疲弊、顧客からの信頼も揺ら
ぎます。価格競争でしか戦えない体質に陥り、やがて市場から
の退出を迫られるでしょう。

■5. 廃業・M&A時の不利な評価

利益率の低下は企業価値そのものを大きく損ないます。M&Aで
の売却を検討する際にも、赤字や低収益体質では買い手はつき
にくく、ついても極端に安い価格しか提示されません。後継者
に承継する場合も「利益が出ない会社」を引き継ぎたいと考え
る人は少なく、結局は廃業リスクが高まります。現実に、中小
企業庁の調査でも「値上げを回避してきた中小企業ほど廃業率
が高い」というデータが報告されています。

■6. 経営破綻へのシナリオ

以上を整理すると、10年間値上げをしない企業の典型的なシナ
リオは次の通りです。

●粗利率低下:コスト増を価格に転嫁できず利益が縮小。
●人件費比率上昇:昇給原資を確保できず、人材流出が加速。
●資金繰り悪化:借入依存が強まり、金融機関からの信用低下。
●競争力低下:品質・サービスが劣化し、顧客離れが進行。
●投資停滞:設備や人材育成に手が回らず、未来の成長余力を
失う。
●事業承継困難・廃業:最終的にはM&Aや承継が難航し、廃業
倒産へ。

これは「急激な破綻」ではなく、「ゆっくりとした衰弱死」の
ようなプロセスです。外から見れば一見安定しているように見
えても、内部では確実に経営体力を削られていきます。

このシナリオから得られる教訓は明確です。物価上昇局面にお
いて、値上げをしないという選択肢は「経営の自殺行為」であ
るということです。大切なのは「一度に大幅に値上げすること」
ではなく、コスト増を見極めながら小刻みに価格転嫁を重ねる
習慣を持つことです。

さらに、値上げの際には単なる「価格引き上げ」ではなく、
◆商品・サービスの価値訴求を強化する
◆ブランド力を高める
◆付加価値を創出し「値上げの必然性」を顧客に伝える
といった取り組みが不可欠です。

年率3%の実質物価上昇が続く10年間にわたり値上げをしなけ
れば、企業は確実に体力を失い、最終的には存続が難しくなり
ます。経営者は「値上げ=悪」という固定観念を捨て、むしろ
適切な値上げは企業を守る最大のリスクヘッジだと認識する必
要があります。値上げは経営者の勇気にかかっています。その
一歩を先送りにした企業から、静かに市場から退場していくの
です。

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